Tears
2005年 04月 11日
LAにいるDのおばあちゃんがSanta Cruzの義両親宅に滞在しているので会いにいってきた。会うのは1年半ぶり、全然変わってなく、曾孫のCKにも初めて会えてとてもうれしそうだった。私たち親子3人、おばあちゃん、義両親、義母の親友Cさん、義両親宅お向かいのLさん、合計8人でランチをし、しばし歓談して義両親宅を後に。
おばあちゃんは2月にご主人(再婚、Dのステップ・グランドファーザー)を亡くした。私が亡くなったご主人に最後にあったのはやはり1年半前、Dの弟の結婚式のときだ。前日のリハーサル・ディナーのときに席がとなりだった。第二次世界大戦末期、米軍のフォトグラファーとして沖縄に滞在、終戦後も日本国内の米軍基地にしばし滞在し、そのときに覚えたという日本語をいくつか披露してくれた(どんな単語だったか忘れてしまったが、、、(^_^;;)。「自分の日本語がまだ通じる!」とものすごく喜んでいたご主人を覚えている。
おばあちゃんにお悔やみを言うべきかどうか迷った。言うことでご主人が亡くなったとき悲しみを呼び起こさせてしまうかもしれない、でもお悔やみを伝えたい、と決めかねていた帰り際、おばあちゃんが「亡くなった主人が『マミ子との会話はとても楽しかった』といつも話していたよ」、と言ってくれた。そしてその瞬間私の目からは涙があふれでた。そしておばあちゃんは言葉にしなくてもわかっているといわんばかりに長い間ハグしてくれた。
次に会えるときには悲しみが癒えているだろうか。そのときにはご主人の思い出話をしてもらいたいと思う。私もそのときは笑顔できくことができるだろう。
おばあちゃんは2月にご主人(再婚、Dのステップ・グランドファーザー)を亡くした。私が亡くなったご主人に最後にあったのはやはり1年半前、Dの弟の結婚式のときだ。前日のリハーサル・ディナーのときに席がとなりだった。第二次世界大戦末期、米軍のフォトグラファーとして沖縄に滞在、終戦後も日本国内の米軍基地にしばし滞在し、そのときに覚えたという日本語をいくつか披露してくれた(どんな単語だったか忘れてしまったが、、、(^_^;;)。「自分の日本語がまだ通じる!」とものすごく喜んでいたご主人を覚えている。
おばあちゃんにお悔やみを言うべきかどうか迷った。言うことでご主人が亡くなったとき悲しみを呼び起こさせてしまうかもしれない、でもお悔やみを伝えたい、と決めかねていた帰り際、おばあちゃんが「亡くなった主人が『マミ子との会話はとても楽しかった』といつも話していたよ」、と言ってくれた。そしてその瞬間私の目からは涙があふれでた。そしておばあちゃんは言葉にしなくてもわかっているといわんばかりに長い間ハグしてくれた。
次に会えるときには悲しみが癒えているだろうか。そのときにはご主人の思い出話をしてもらいたいと思う。私もそのときは笑顔できくことができるだろう。
by mammyko
| 2005-04-11 03:14
| 日常